湘南・茅ヶ崎駅徒歩5分。のんびりここちよい街で緩めて、はずして、楽になる。

「助けたい、はダメ」を超えていくもの

助けたいと思ってはいけない!!

というのは、セラピストなど対人援助をしている人によく言われる
「考え方」のひとつのスタンダードなんです。

だから寄り添うとかなんとか言ってみたり。

助ける、は相手の力を奪うとか、
依存や干渉、介入につながるとか
偽善者的自己満足、欺瞞、傲慢など
色々なネガティブな要素があると。
よくよく気を付けろ、と。

実際、そうした関わりになってしまう事例もあるわけです。

なので私も、ダメって思ってた。

(2010年ぐらいに仕事で作ったキャラ)

「助けるなど言っても思ってもダメ、
ただ寄り添うことよ(寄り添うってなんなん?)。
余計な事しちゃダメっ」

みたいな。

「私も介入されて嫌だと思ったことあるしっ」とか。

てか、そもそもこれは職業の話ではなく、
生き物の「自然」に人間が手を出してはいけない、
というのものも含めて

「助けたい」は間違いだ、という考え方になっていき

助けたい、力になりたいという
自分や他者の純粋さをもわからなくさせていく事もあるなあと、
最近思ってました。

もともと他者に対して持っていた
「叱られないように」などの
怯えや防御がありつつ、
害を与えないように、
正しくあるように、
間違いを犯さないようにと、
様子を伺う。
(思いやっているつもりの怖れ)
みたいな。

人に対しての「壁」(←適正な境界ではなく)
私はそれが2、30代からしたら
かなり薄くなっているつもりでした。
それでも
今まで他者とのバランスと思っていたものは、
防御して、用心して、
自分の壁の内側から外の様子を伺っていたことであって、
本当に相手に関わったり、
人を感じていなかったのではないかなぁ、と。

ちゃんと感情はあるし、観察はしてるので
感じれていたつもりなんだけど。

楽になって欲しい、
そうなると嬉しい。

でも、そうした感情思考ではない
自分の壁を溶かしていく暖かさのようなもの?
意識の拡大?みたいなのが
本来は人同士の間にあるのではないかな、
と最近感じ始めてる。

「あまり相手のことを思ったら、自己犠牲になる」と想像して
自分を大事にし、優先させなければと頑張ったり
自分と他人のバランスを取ろうとするけど、
そうした分離感ではないもの。

むしろ、お互いの世界どうしが広がっていくもの。

(2015年頃に夢で見た映像を絵にしました「行き交う人々」)

とはいえ相手への<サービス>という動きになるでもない。
相手を感じたら間違いをしないという事でもない。

まずは
助けたいと思ってもいい。
行為が伴わなくても。
それは、そもそも人間として自然な感覚だよね。
どういうことが本当の助けるなのか?もあるけれど。

て、

なかなか誤解を受けるのも知っていて
あえて言ってみました。

言葉としては「寄り添う」などを選ぶとしても。

ひっくりかえった仲間を
助けるカメ(寄り添っちゃいないな)