おいおい、年末にコレですか?
と思ったけど、書いておこうと。
2023年は死と再生だったと書きました↓が
「子どものころから、
死ぬことが怖いとは思ってなかったのです」
なんだろう?ぐらいの感じ。
(↑蝉の抜け殻)
ただ、自分で命を絶ったりしないぞ、
っておもってた。戦いに挑む感じで。
たぶん、6、7歳ぐらいまで??
それが、
常に死が近くにあるような感覚、
そして、死にたいという
感覚になっていきました。
20代後半では、明確に死にたかった。
けれども自殺は、
<あの世で、暗闇に一人で永遠に閉じ込められる>
とかなんとか聞いていて。
死んで楽になりたいのに、
それだと、死んで楽、にはならんじゃん!
生きるよりも辛いじゃん!困る!
だから、ナントカして、病気になって
死にたいな〜と、画策するというか、
そう願いました。
つまり、
「神様〜、これは自殺ではないですよ〜」
というテイにしたかったのです💦
<諦めの中で生きるのか、
いやいや、希望を持つべきなのか?>
その葛藤が極まっていたある日、
高田馬場駅の階段を登っていました。
ふっと、自分が体から抜けて、
上から自分の体を見下ろしていました。
ほんの一瞬。
そしてまた、戻りました。
一瞬止まっていたような音(周りの騒音)も戻って、
なぜか、
「ああ、もう、これ以上堕ちないだろう」
と思いながら、
ちょうど来た黄色い電車に乗ったのです。
実際、そこから変わっていきました。
とは言っても、
死が怖いというのが、
感覚としてはわからないのは変わりません。
(色んな事にすごくビビりなのにね
死に到るまでのことや、
身辺整理云々にはビビるのにね)
ところで今年5月に、
だんなちゃんが3度目の脳梗塞になりました。
そこからの、だんなちゃんの
自律神経失調症やパニック障害。
特に退院してしばらくは、
外出するなどの行動に付き添う以外にも、
神経、心の状態を落ち着かせるために、
私がいること、私と話すことが、
大事になりました。
今は、仕事も復活してますが、
それでも、人といる、私といることの大事さがあります。
私が先に死ぬわけにはいかないなぁ…と。
キッチンで鍋をかき混ぜながら、思いました。
今までとは違う、
<生きなきゃ>という感覚がきました。
それまで、
「私が死んでも、誰も困らないよね」
という前提が、根底に潜んでいたのです。
たぶん、子供の頃から。
(ちなみに、この場合、
「本当に誰も困らないのか?悲しまないのか?」
という事実とは関係ないものなのです。
だから、「あら、そんなことないわよ〜っ」という
善意の否定は、本人にとって
あまり意味をなさなかったりします。)
そして、その夜、
夜中にふと目が覚めた時に、
死の恐怖がやってきました。
急にです。
だんなちゃんの事とは全く関係なく。
純粋に、自分自身の死の恐怖というものが。
死ぬことの恐怖。
えも言われぬ、、、。
はじめての感覚で動揺しました。
死への恐怖そのものと、
今ごろそれを感じちゃっている自分。
動揺を感じきったのかなんなのか、
20分ぐらいしたら寝ちゃいましたけど。
その感覚は、特には残っていない。
また、その感覚がやってくるんだろうか??
ただ、死が怖くない、というものとは
なんとなく違っている感じがします。
そして、実際に「死」は、
年齢、体の衰え、などからも
以前よりも近しいものとしてあります。
と、同時に
「自分を生きる」も目の前にある気がします。
以前のような、時間をやり過ごすような
生き方ではないものが。
うーん、それも緊張する。
怖い。
ワクワクもある。
さて、まずは筑前煮でも煮よう。
そして、
筑前煮は、これまでにない
大失敗をして、人参とか煮溶けてしまったのであーる。
わはははは!!
たくさん失敗もする2024年にしよう。